「――俺…」






 俺はブランコの鎖を握り締め。
 俯いていた。






「俺…っ、“亮也”の事…なにも知らなかった…。

 解っているつもりが

 なにも解っちゃいなかった…」






 なにも気の利いた事も云えなくて。
 涙すら浮かんできた。

 制御の苦しみ、とか。
 義父への不満、とか。

 生活の不安、とか…。

 人間に対する恐怖とか。

 俺に理解させるのは難しいモノばかりを。
 亮也は理解せざるを得ない環境下で。

 俺はなんて無知で幸福なんだろう、と思った。






他人(ひと)の痛みが解る人間になりなさい』






 大人はよく云う。

 でも実際、無理なんだよ。
 人間(ひと)の心はあまりにも未知数で。
 他人(ひと)の考えはあまりにもそれぞれ違いすぎて。

 解る筈がないんだ。






 スベテの人間が合う意見なぞこの世に存在しない。

 『十人十色』

 正にその通りだ。












「泣かなくていいよ」






 ブランコから降りて。
 亮也は俺を抱き締めた。






「拓海は泣かなくたって、いいんだよ」












 スベテの人間を理解できる者なぞ居ない。






 それでも俺は。
 亮也を理解していたかった。






 俺もブランコから降りて。
 亮也を抱き締め直した。






「拓海…」
「亮也…戻ってくれないか…?」
「………」
「『悪魔』でも“優等生”でもない、“本当”の亮也に…」






「“ボク”には…どうする事もできないよ…」
「どうして?」






「戻るかどうかは、“僕”次第。

 だから、どうしようもない」






 意思の問題、というヤツか…。






 “なりたかった自分”に委せるか。

 “本当の自分”を曝け出すか。






 他人にとってはどうでも良い事だけど。

 亮也にとっては究極の選択――。











「――俺は、どんな亮也でも…好きでいられると信じてるから。

 例え『悪魔』だろうと
 殺人鬼だろうと

 亮也だったら、それで良い…」






 きっと、ずっと前から亮也しか見てなかったんだよ。

 今こんなに素直に気持ちを云えているのは、きっとそんな理由。






「世界中の人間が亮也を嫌ったとしても
 俺だけは、お前から離れない。

 保証してやるよ。

 だからさぁ…
 戻れよ。

 その気じゃないなら
 爺になるまで待っててやるからよぉ…」






 最後の方はもう情けない声しか出てこなくて。
 そんな自分を思って。
 もっと情けない気持ちになった。






 その時に。
 気づけば良かった。

 亮也は既に――












「――残念だなぁ…」












 この世の者とは思えない優しい物云いに。

 悪寒が走った。






「“亮也”はもう――戻れない」

「な…っ?!」

「『契約』は、成立した…」






 周りの景色が歪む。

 目の前にモザイクが掛かった。

 立ち暗み…とは訳が違う。

 気が、遠くなってゆく…。

 方向感覚も平行感覚も失くなって。

 目が回る。

 頭が…痛い…。



 ただしがみついている服の感触だけが。
 亮也の存在を証明した。






「ねぇ、痛い?苦しい?






 ――それはスベテ“亮也”が心に受けたモノだよ。






 君には特別にそれを肉体的に受けてもらっているんだ。






 知らないのなら

 経験するまでだ。






 これで少しは『他人(ひと)の痛み』が解ったんじゃない?」






 亮也の口調の変わらなさに。

 恐怖や憎悪さえ感じる。






「助けてほしい、とか

 思った?






 残念ながらそれは出来ないんだよねぇ…。











 だって“亮也”は

 負けたんだから」






 亮也になにをした!!?






 そう叫べない自分が恨めしい。
 上手く舌が回らなくて。
 呼吸さえも喘ぎに変わってしまう。






「可哀想に…。

 こんなに震えて」






 自分の状態が判らない中で。
 亮也の声だけはやけにクリアに聴こえた。

 愉しそうに嗤いながら。
 悪戯に俺を抱き締めたりする。






「――でも…」






 強く肩を掴まれ。
 次に宙に舞う感覚。

 突き飛ばされたのか。
 投げ飛ばされたのか。

 それは判らない。

 俺はもう。

 何処が地で。
 何処が天なのか。

 それすらも、特定できない。






 ただこの公園の粒子の細かい砂が。
 一方の肩に当たる所から見ると。
 横に倒れているのは確かだった。






 俺は少し遠い亮也を見つめた。

 この苦しみにある程度馴れたのか。
 視界は少々ぼやけつつもはっきりしてきた。






いつもより月が近い。

銀、よりは、黄。

その月明かりは。

骨と皮でできているような獣の黒い翼を。

湛える嘲笑を。

照らして。






 『悪魔』って、居るんだ…。









 …なんて今更に思っていた。












「お別れだね、拓海」












 一瞬嫌な音と鋭い痛み。

 そして俺の世界は閉ざされた。














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