【02】 精気が減ると、それなりに疲れる事が判った。 というのも、最近彼に異変があったらしく、いままでより多くの精気を取り込まないと生命活動に支障が出てくるそうだ。手っ取り早くそれを取り込むには、彼が最も好む俺の精気を取り込ませるのが最良だ。 それにより俺は、いつもより多くの精気を失う事になる。精気は人間の生きる源、『魂』だとさえ云われている。それをこの数日で大量に削られいるのだ。少し怠いと思ってしまっても仕方がない。 だからと云って、迷惑だなんて一度たりとも思った事はない。他人を巻き込んでしまうよりかはずっと良い。 「怠いの?」 「うん。少し」 机に伏せる彼は元気がないように見えた。それでも他人から見れば微々たる差。 彼はあまり他人に自分を判らせようとしない。彼が必要としないからだ。一見他の奴と仲が良さそうに見えても、手の内は10分の1も明かしていない、なんて事もある。彼はそういう人なのだ。 「林、遠慮しないでいいよ」 「…いいの?」 伏せたまま不安そうにこっちを見上げてくる。潤んだ瞳は少し虚ろになっていた。どきりと胸が一瞬跳ね上がる。 彼は、俺に気を遣いすぎだと思う。 確かに精気を取られれば少々の疲労感は否めない。しかし精気は彼にとっては“食事”、それを摂取できない状態は“空腹”と同じだ。 食べなければ死ぬ。これは全ての生き物に云える事だろう。 「ありがと。 …ごめんね」 何故謝るのか、俺には判らない。 音もなく俺の手に触れた指は思いの外冷たかった。吸熱反応で体温が奪われそこで調和していく。形を確かめるように撫でられて、指先を絡ませる。しっかりと手を握り込まれた。 この授業中の教室で、手を繋いでいるのは俺たちだけだ。席は後方だが、後方に人が居ない訳ではない。そいつらがどう思っているか定かではないが、俺は気にならない。きっと彼もそうだろう。 教師は相変わらず黒板に字を書き、教科書を読み上げ、時に話を聞いていない生徒を叱っている。 心拍数が上がっていくのを感じていた。触れている喜びか、授業中らしからぬ行動による緊張か。否、繋ぎ止めていられる安堵か。 この時間を、確かに俺は“幸福”だと思った。 全ての授業が終わって、教室から殆ど人が居なくなる。 この時には彼の顔色も割かし良くなっていた。俺は少し疲れた気がするが、あまり気にしていない。 「………あ、待って」 「どうしたの?」 突然彼の歩みが止まった。昇降口に着いた矢先。 忘れ物、と1つ呟いた。 「美術室に教科書忘れた」 「じゃあ、取ってきなよ」 「…山田は? 待つの?」 彼は心配そうに俺を見つめた。 冬が厳しくなっていく中、空気が冷たく肌に触れる。夜となればそれは、上着の上からも体温を奪って、身体の末端を悴ませる。 「大丈夫だから、行ってこいよ」 彼は、この寒さの中待たせる事は辛いのではないか、そう考えたのだろう。 成る程、如何にも彼らしい。 「…なるべく、早く戻ってくるから」 そう云って彼は、渡り廊下を早歩きで通って行った。 俺は昇降口に下りて、壁に寄りかかる。見渡した限り、存在する人間は俺だけ。はぁー、と吐き出す息が白い。 孤独な空間が、より一層彼の大きさを思い知らす。さっきまで側に居た人物が居ない。そんな事はないのに、戻ってこないかも、等と不安が過る。なんて哀れなのだろう。 こんなにも寂しい。 彼に触れていた掌を一舐めして、それを和らげる。 「…あった」 机の下についている棚に置いてある一冊の教科書。オレの忘れ物。手に入れて、鞄に仕舞う。 今日はツイている。運よく教師が美術室に居た。3階にある職員室まで行かないで済んだ。 これで早く山田と帰れる。 教師は出て行ってしまったけど、そのままでいい、と云われたから、このまま帰っていいのだろう。 鞄を背負い直し、扉へ向かおうとした、――その時。 発生するノイズ。耳鳴りが大きく脳内に反響する。眩暈のように光の砂嵐が舞って視覚が阻まれる。何処が天で、何処が地だか判らないでいた。絵の具で汚れた机の感触だけがまだ重力を奪われていない事を証明する。 この感じ…空間を捩じ曲げられたこの感じは。 結界を、張られた? まさか…居るのか? オレ以外の、“人外”が。 「――やっとゆっくり話が出来そうだ、…林クン?」 声が聞こえると同時に、視覚も聴覚も正常に戻る。驚いて真横の人物を見上げた。 「すず、き…?」 「知っててくれてたんだ」 そう云って鈴木は不敵に微笑った。 気づかなかった。こんなに近くに人が来ていたなんて。――否、これは“人”の為せる業ではない。 鈴木は、俺たちのクラスメイトだ。だが話した事もないし、この人が誰かと話している場面なんて見た事もない。学校に親しい人が居ないらしい。無口で内向的で、影の薄い奴だと思っていたけれど、どうやら違ったようだ。 オレと同じ“人在らざる”生物。 「アンタ、何者だ」 後ずさり、間合いを取る。オレより頭1個分高い位置にある鈴木の顔を見つめ、睨みつけた。 イヤな感じだ。 「まだ判らないか?」 やれやれ、とでも云いそうに軽く溜め息を吐く様子は困っている等微塵も感じさせない態度で、寧ろ余裕に満ちていた。 ムカつく。 オレはこんな奴に構っている暇はない。 山田が待っている。早く行かなくては。 だが逃げるどころか反対に、手首を掴まれ、身を引き寄せられると間合いを縮められてしまった。『縮められた』なんてものではない。奴との距離は0。密着した状態だ。 放せ、と鈴木の腕から抜け出そうとする間もなく告げられた。 「未熟なる者よ、私は“淫魔”だ」 誘惑する眼を、人は『色目』と云う。だが奴の『色目』は、獲物を狩る野獣の目のようにギラギラと輝いていた。 “オレガ良ク使ウ眼ダ。” 見上げたまま、目が離せない。言葉を発する術もない。力が抜けて、抵抗が出来ない。 淫魔? 未熟? 頭が混乱していて、正確な答えが紡ぎ出せない。 自分が、失くなっていくみたいだ。すべてをこの人に委ねてしまいそうだ。 薄れていく意識の中でただ山田の事だけを考えていた。 |
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