「山田、おはよ」
「よ…よう、林」

 彼は気配もなく近づいてくる。もう随分な付き合いだが全く慣れない。
 登校途中の緩い坂の上。だが朝ではない。朧月が天高く輝き、金星が遠くの空に垣間見える。

「今日もイイ匂いしてる」
「そ、そうか?」

 俺は香水を付ける主義ではない。彼の云う“匂い”とは、所謂“精気”というモノらしい。彼はこの精気を甚く好む。“食糧”なのだと、彼は云う。
 何故なら、彼は人間ではなく“淫魔”だから。


【the WORLD at MiDNiGHT】


【01】


 俺がこの事を知ったのは、中学の時だった。

「“淫魔”…?」
「そう、“淫魔”」

 不思議と驚きはなかった。彼は恰好いいとは少し違うと感じていて、どちらかと云うと綺麗なものだと思っていた。
 “淫魔”とは、人間との性的行為によって精気を奪い、それを糧として生きる、文字通り『淫らな悪魔』。
 だが彼は少し違うようだ。
 彼は性的行為を必要としないのだと云う。
 “精気”というのは人間の身体から常に滲み出ていて、彼は“匂い”として感じ取れる。良い精気である程、その匂いは甘く濃厚なのだそうだ。

「山田のは格別美味いんだ」
「そうなの?」
「うん。舌が蕩けそうな感じ」
「えぇ?」

 舌が、蕩けそうな感じ???
 どんなものか皆目見当がつかない。

「やっぱ判んないか」

 そう云って笑った彼の顔は、人を誘惑する妖艶さなど欠片もなく、いつもの友達のまま。
 彼が“淫魔”だなんて、嘘みたいだ。

「でも今まではお前が気づかないうちに精気を喰ってたんだ」

 ごめん、と彼は謝る。
 謝る必要なんてないのに。友達なのだから当然だとさえ思っていた。
 だが彼がいつも俺の側に居たのは、俺の放つ精気を喰う為だったのだと知って、少し残念な気持ちにもなったが、彼には云わない。

「大丈夫だろ。ほら、今こうしてピンピンしてるし俺」

 そう云った俺に、彼は『優しい』と云った。
 自覚はなかった。ただ云われてみればそうなのかな、と思う程度。
 或いは………俺にとって彼が特別なのだろう。深い意味はないのだけれど。

「それじゃまた後で」
「…うん」

 そして俺達は同じ高校に通う事になった。彼にとって“最高の餌”である俺と離れる事は酷というものだ。しかも彼らは昼より夜を好む事と俺の成績の悪さにより、定時制を選ばざるを得なかった。
 クラスまで一緒になるなんて、願ったり叶ったりだけど。
 しかしずっと一緒に居られる筈もない。必ず移動教室や選択教科によって別々に行動しなければならない事が少なからずある。
 だからといって、彼が俺から離れた為に死ぬ、なんて事はない。
 彼は人見知りが激しいが案外健かで、俺以外にも“美味い”と感じた精気の持ち主とはすぐに打ち解ける。基本的に食糧には不自由しないのだ。
 それでも俺から離れる事がないのは、よっぽど俺の精気が他人のものでは満足できない程に美味いからなのだろう。
 それは判っている筈だった。『彼が俺から離れる事はない』。
 だがこの感覚は、感情は何なのだろう。
 何故焦っているのだろう。
 授業が耳に入らない程、何をそんなに気にしているのか。
 彼が俺の居ない所で、他人の精気を喰っている。そんな事はとっくに知っているのに。
 何が気に入らない?
 最近、移動教室の日はいつもこんな思いをして止まない。彼が気になって仕方がなくなる。自分に疑問を投げかけても、答えが返ってこない。
 まして他人には云えない。何だか云ってはいけないような気がしてならないから。
 そんな考えを廻らせていたら、チャイムが授業の終わりを告げる。最早いつものパターンと化していた。
 教室から出てクラスに戻る途中の廊下。遥か前方に彼が居た。
 彼が、他のクラスの奴と話している。
 楽しそうに笑みを零す姿は、いつも俺に見せるものではなく、何処か他人を惹きつけるような、魅了を含んだものだった。
 俺と一緒に居る時には見せない表情。
 やがて彼は話していた奴に手を振って別れると、俺に気づいて笑いかけた。
 俺にしか見せない表情。

「山田! …どうした?」
「う…ううん、何でも」
「…そう」

 何故だろう、さっき感じた胸の痛み。
 今はもう引いている。

「…あの人と」
「ん?」
「あの人と、仲良かったんだ?」
「まぁ、ね。 山田には劣るけど」

 何の優越かと云うと、他でもない精気の事だ。彼の基本的な人間の判別方法。
 俺以外の人間を“生き物”として見ていないのは明らかだった。

「ホントにどうした? 授業始まっちゃうよ」

 否、俺の事ですら、生き物だと思っているかどうかも疑わしい。
 彼にとって、やはり人間は単なる“餌”でしかないのだろうか。

「ごめん、…大丈夫だから」

 心配そうに眉を顰ませた彼を他所に、人通りが落ち着いた廊下を歩き始める。彼が連いてくるであろう事を予測して。
 しかしそれは裏切られ、彼は俺の上着の裾を掴むと、歩みを阻んだ。
 振り向く先に、彼の眼。

「ホントに?」
「…ホント」

 そうか、と困惑雑じりに微笑する彼。
 裾を掴むその手を握った。弾みで彼の手から裾が外れる。彼の表情を見もせず、ただ教室に戻る事だけを考えて、彼の手を引いた。

「早く、行かなきゃ。 授業、始まっちゃうんでしょ」

 彼は驚いたのだろう。一瞬身を引いたのだが何も云わずに手を掴まれたまま。
 こういった単純な接触でも精気を奪われてしまう事を、敢えて今は無視した。
 教室まではそんなに遠くない。すぐ放すつもりで繋いだ手だった。

 俺は、“餌を与えるだけの存在”として彼の隣りに居るんじゃない。
 彼の側に居たいから、俺は此処に居るんだ。
 かけがえのない友人を失いたくないから。
 その為ならば、いつまでもこの手を放さずにいよう。
 彼が俺を“餌”だと認識していようとも。






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