「ビクトール、訊きたい事がある」
「あぁん? なんだよ」

 相手の許可も得ず、向かいに座る。


【Border Line / the second half】


 ジェスを運んだ後、その足で酒場にやって来た。此処で飲んでいるであろうビクトールに話を聞く為だ。
 予想通り、奴は其処に居た。

「ジェスの事だ」
「ジェスだと?何でまた」
「病気とか持ってないか、あいつ」

 特に精神的な、と付け足して奴の様子を見る。
 顔を顰めて、少し考えている素振りをした。こいつは、何か知っている。

「知ってるんだな」
「…ああ。アナベルの奴に相談された事があったな」
「それで?」
「急かすなよ。そんなに軽い話じゃねぇんだ」

 それは俺にだって判る。あんな拒絶反応を見せられたら、判らざるを得ないだろう。
 意識を失くす程の拒絶。
 あいつの中に、どんな闇が潜んでいるって云うんだ。

「…悪い」
「ん。 それでジェスの事なんだが…」

 よっぽど云いづらい事なのか、なかなか奴の口から言葉が出てこない。

「数年前かな…?あいつがまだ副市長になったばかりの頃。社員寮の自分の部屋でオトコに襲われたらしい」
「…!」
「犯されたんだってよ」

 酒場が程よく賑わってくる。幸い、喧騒に紛れて他の者がこの会話を聞き取る心配はない。
 だがそんな雑音でさえ、俺の耳には入らなくなっていた。

 その日もジェスは大量の残業をこなして、寮に帰って来たのは夜も明けそうな時刻だった。多忙に次ぐ多忙でジェスの疲労も限界に達していたのだろう、そのままベッドに倒れ込むようにして深い眠りについた。
 いつもと変わらない夜の筈だった。そう、何者かが部屋に侵入して来るまでは。
 酷い有様だったようだ。とは云っても、部屋を荒らされた形跡はなく、盗られた物もなかった。だがその身体に残された痕の数々は、誰もが目を背けたくなる程痛々しかった。
 その瞳は誰を映しても揺らぎ、怯えを湛えた。ジェスが敬愛して止まないアナベルでさえも。目を合わせる事は決してなかった。
 『まるでこの世のすべてを拒んでいるようだ』その時の様子をアナベルはそう云ったらしい。
 本人が拒んだ為満足なカウンセリングも受けず、職場に復帰したのはそれから直ぐの事だった。『穴を開ける訳にはいかない』と云って。
 だがやはり、相当の無理をしていたのだろう、度々自殺を図ろうとしたらしく周囲を困らせた。

『ジェス、今度の会議の事だが…ジェスっ!!』
『ッ…!』
『誰か、医者を!! 馬鹿者!!何をしているんだジェス!!』
『………っ』
『手首なんぞ切って!そんなに死に急ぎたいか!!』
『俺はっ…穢れてるんだ…っ!こんな、穢れた躰なんかっ、要らない…っ、要らないんだぁっ…!』

「今のあいつを見ると、よく立ち直れたもんだって云えるんだろうな。俺は専ら今のしか知らねぇし」
「……犯人はどうしたんだ?」
「それがジェスの奴、口を割らなかったんだとさ。庇ってんだかただ単に思い出したくねぇんだか判んねぇけどな」
「………」

 酒場の喧騒が俺の耳に返ってくる。
 最悪だ。俺のやらかした事は最悪だ。
 扉にかかった鍵が、俺の理性まで閉めてしまった。その所為で。
 …最悪だ、俺。

「…すまないな、時間を取らせて。助かったよ」
「しっかし、何で今更あいつの事なんか…」

 椅子から立ち上がる。背を向けた途端投げられた問いに、振り向き答えた。

「悪い事、しちまったからな」

 「ふーん」、と興味なさげに呟かれる。だがその顔は何もかも判っている風で、そこが少し気に喰わない。
 何も訊かれないだけ、マシかもしれない。

「…じゃあな」

 人をすり抜けて、俺は酒場を後にした。


「――アナベル。良かったんだよな、これで」




 窓の外を見た。橙に染まった光が差す。
 もう、夕方か…。随分眠っていた気がする。夢も見ぬ程に。

コンコン、ガチャ

 ノックの後、医務室のドアが開く。目を向ける事はなかったから、誰が入ってきたかは判らなかったが。
 あ…、また睡魔が…。

「…!」
「あの、ジェスは…」
「ええ、大丈夫ですよ」
「そ、そうですか…」
「?」

 医務室の奥のベッド。そこに横たわるジェスは眠っているようだ。遠目だったが、その横顔は綺麗だった。

「…それでは、私は少し出掛けて来ます」
「え!?」
「すぐに帰ってきますので、留守番…お願いしますね?」
「ちょっ…!!」

 そう云ってホウアン殿は医務室から出て行ってしまった。俺とジェスを置いて。

 また、理性を失くしてしまったら。
 今度は誰も俺を止めてくれない。
 再度、ジェスを苦しめる事になる。

 否、そんな事はさせない。
 守りたいんだ。この手で、守り抜く。
 誰も触れさせない。

 心を強く持て、と自分に云い聞かせた。
 突っ立っていても仕方がない。ジェスの方へ近づいて、近くにあった椅子を引き寄せて座った。
 規則正しい寝息。ただそれだけが聞こえる静かな空間だ。
 今、彼が目覚めたら、俺を見てどう反応するのだろう。…考えたくもないな。
 じっとジェスを見つめる。細い腕…筋肉がまるで付いていない。肌も、白いな。傭兵の俺と違って、傷ひとつ無いのだろう。
 すうっと通った鼻筋。長い睫毛。整った眉。薄い唇。厳格な印象なのに、何処か妖艶で。茶色の髪は触れるとさらさらと零れてしまいそう。
 手が、ジェスの髪に伸びかけた。瞬間。

「触るな」

 強気な声。その唇が動いて発せられた拒絶。慌てて手を引っ込める。
 色素の薄い瞳が、そこにはあった。冷たい表情で、俺を見ている。

「…ジェス」
「………」
「その、……済まなかったな」
「冗談なんだろ?」
「え?」
「からかっただけなんだろ?」

 その眼差しは、縋るように訴えていた。何故そういう解釈をしたのか俺には判らない。
 だがそう思わなければならなかった何かがあるのだろう。

「情けないな…。冗談で倒れられたら、堪ったもんじゃないだろ…」
 自嘲するように口唇が歪む。

 “冗談”で済まされてしまうのか、あの口吻けを。俺にとって、そっちの方が堪ったもんじゃない。  俺は、本気だった。あのまま無理矢理でもモノにしたかった。――ジェスを。罵られても貶してくれても構わなかった。
 モノにならなくたって、傷を付ければいつだって俺を思い出してくれるから。 汚いな。…ああ、知っていた。
 だが。だがそれは、ただあいつの古傷を抉るだけだった。苦しめる前に、更に苦しめた。
 俺は、俺のやろうとした事に羞恥した。そして、誓った。俺が、ジェスを2度とそんな目に遭わせたりしない。
 報われなくてもいい。

「“冗談”、か…」
「なんだ?」
「…いや」
「云いたい事があるなら、はっきり云えばいい」

 かなり滅入っているように見えた。怪訝そうに俺に視線を投げかけてくる。
 俺は微かに笑んだ。

「そうだな…これだけは、憶えておいてほしい。
 俺は、“冗談”なんかでキスはしない。
 …じゃあな、お大事に」

 そう云い残して、俺は逃げるように医務室から出た。扉に背を靠れる。
 …俺もまだまだってトコか。逃げるなんて。
 まぁ、ああ云われて意味を汲み取れない程、あいつは鈍感じゃない。――後は、あいつ次第だろう。




『俺は、“冗談”なんかでキスはしない』

 他人は、信用ならないモノ。その考えは今も同じ。まして「他人を愛する」なんて、俺には一生無理に決まっている。
 でも………何故だろう。この速まる鼓動、上昇する体温。
 嬉しい…のか?

「そんな事…」

 否定できなかった。思ったより、自分が自分に正直で。
 でも。あの日の記憶がチラついて離れない。あの時のあいつの顔が忘れられない。
 今も。

「………っ」

 胸を締め付ける想いと、この身を縛り付ける記憶が交差する。
 ただシーツを強く握り、涙した。

「俺は…っ」

 いつからだろう。あの青年が優しく微笑ってくれたのは。
 それを心地よいと感じ始めたのは。

「………貴方が…」

 そんな、恐れ多い。俺は、こんな気持ちになってはいけないんだ。

 …きっと、疲れているんだ、俺は。
 そう、疲れているだけなんだ。
 あんな口吻けひとつで倒れるなんて。

 あんな、口吻けで。

 ――もう、考えないようにしよう。
 少し、また眠ろう。
 涙で滲んだ天井が視界から消えた。伝う雫が鮮明に感じる。

 そして。
 俺の泣き顔までも美しいと云った男の声を振り払うかのように、眠りに着いた。









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