あの日の僕には、そうするしかなかった。

「左遷、か…」

 至極当たり前の結果だった。
 自分のしてきた事は、教職者にあるまじき行為だと自覚していた。
 その上で関係を重ね続けてきたのだ。これは当然の罰だ。
 これから二度と会う事はない教え子たちが脳裏を掠める。語りかけの話、他愛ない口約束。
 そして――。
 春の訪れを知らせる、強い南風が吹いた日。膨らみ始めた蕾をつける桜の枝が揺れている。
 いつものように授業を終え、いつものように雑務を抱えて帰路に着く。駅から離れた閑静な住宅街の中で異彩を放つ、時代に取り残されたようなボロアパート。その二階の真ん中を借りている。
 塗装が剥げて錆び付く階段に座り込む影を見つけて、思わず立ち止まった。

「高杉くん…何故、ここに」
「待ってた。あんたを」

 いつ振りだろう。彼の顔をまともに見るのは。

「…どいてくれないか」
「嫌だ」

 聞き分けのない幼い子どものような物言いで俯く。
 梃子でも動く気はないのだろう。彼の意地っ張りな性格は解っていた。――それと同時に、納得のいく言葉には素直な事も。

「僕はもう、君と会う気はないよ」
「俺に迷惑がかかるから?」
「………」
「俺は好きであんたのトコに居るんだ。…こうなる事だって、覚悟してた。
 今更だろ、一人で背負い込んで」
「僕には責任がある」
「建前なんか聞きたかねぇよ」

 刺さるような真っ直ぐな瞳。

「…そうだね」

 静かに息を吸って、吐いた。

「僕はもうすぐ、遠くへ行く。だから、もう会わない」

 ――もう会えない。
 吹き抜けた風は生温く、胸をざわつかせる。
 掻き消えそうな小さな声で捻り出された、理解を示した一言。鮮明に聴こえた気がした。
 立ち上がり、横を走り去っていく。後ろ姿を追いたい衝動を抑える。急に辺りが静かになった。
 足早に階段を上りながらポケットから鍵を探って、自室の扉を開ける。
 中に入って後ろ手で閉めた。持っていた鞄を落とし、そのまま扉に背を凭れてずるずると玄関にしゃがみ込む。
 これでいい。
 押し潰されそうな胸に云い聞かせる。

 今の僕には、こうするしかないのだから。




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