失う夢を見た。 この絶望感は、何だ? 太陽は夜も輝く 「変わった匂いですね」 「…何のことだ」 取引先の女性が帰り際に話しかけた。長身の青年は眉間を顰める。威圧するような低い声音。 「やっぱり香水付けられるんですね〜」 「いや、そんな物は………臭うか?」 「ええ、良い匂いですよ。ちょっと意外な感じで」 物怖じせず女性は笑った。青年は上着の襟を鼻に寄せる。嗅ぎ慣れた香の薫り。その様子を見てまた笑う。 思い当たる節は一つ。ほぼ居候と化した異国からやって来た少年。 舌打ちをしそうになって耐えた。 「それでは、また」 一礼して女性は立ち去ろうとする。開けようとした扉が独りでに開くと、そこから褐色の肌を持つ少年が入ってきた。 少年は少し驚いたような顔をしたが、会釈をすると女性も会釈を返した。少年が譲ると女性は出て行く。 扉が閉まると、少年は瞳を輝かせながら云った。 「瀬人さん、お花見しよう!」 「断る!!」 「即答しないでよ」 香の匂いと埃っぽさ。何故こうも苛つかせるのだろう、と疑問に思う。 「何で? モクバくんに午後の予定は空いてるって聞いたのに」 「そういう問題ではない!」 「じゃあどんな問題なの!?」 「ぐっ、それは………と、兎に角だ! 花見がしたいなら他の奴を当たれ! 下らん!」 そう突き放し、海馬はデスクに戻る。椅子に深く腰かけ、背を向けた。肘掛けに片肘をついて頬杖をつく。 少年は拗ねたような顔をすると、勢いよく部屋を出て行った。大きな音を立てて閉ざされる扉。 窓越しに見るその姿に海馬は溜め息を吐いた。苛立ちは最高潮に達し、頬杖をついていた手で頭を抱えた。少年が此方の都合を無視して突拍子のない事を云い出すのは日常茶飯事だ。そしてそれを正当な理由で撥ねつけるのもまた然り。 だが今回ばかりは違った。理由も云わず突っぱねて気のないフリをした。 その結果――あんな泣きそうな顔をさせてしまった。 自己嫌悪に陥り、また苛立ちが増していく。何故こんな不愉快な気分にさせられるのだ。 フラッシュバックする幻影。闇に沈んでいく四肢。澄んだ紫苑を悲愴に濡らし、輝きを失う太陽。この手を伸ばしても救えなかった。 夢など脳が作り出した記憶の継ぎ接ぎでしかない。 しかしこの胸に残る不安は、何だというのか。吐き出す事も出来ず、苛立ちは募るばかり。 不意に扉が叩かれて開く。平常を装って椅子を回した。 「兄サマ、前四半期の…」 「…どうした、モクバ」 顔を合わせるなり言葉を詰まらせた実弟に、海馬は続きを促そうと問う。 「顔色悪いよ、兄サマ。マリクと何かあったの?」 モクバの口から出た少年の名が心に刺さるようだった。苛立ちは大分落ち着いたが、代わりに罪悪感が押し寄せてきた。今更、と海馬はまた溜め息を吐く。 その様子におろおろと心配そうな眼差しで、モクバは実兄を見つめた。 「兄サマ?」 「…すまないがモクバ、後は頼めるか?」 「あ、当たり前だぜっ」 モクバは誇らしげに笑ってみせた。 そもそも今回の休養は普段から『働きすぎだ』と云われて、体調を気に掛けてくれたからこそ取ったのだった。 海馬は椅子から徐に立ち上がり、モクバの頭を撫でると部屋から出て行く。静かに閉じる扉の音。 安心したように微笑み、モクバは書類を抱き締めた。 まだ夜には遠い昼下がりの事。 自宅へと運転手に車を走らせ、帰路に着く。門が開き、手入れの行き渡った庭を通り抜けて玄関を開けさせた。 召使いに少年の居場所と様子を聞いて、歩を進める。階段を上り、廊下を足早に行く。一つの扉の前に立ち止まった。 手を前に出す。躊躇して、初めて少し緊張していると気づいた。動悸を整えようと息を吐く。 扉を叩いた。 「マリク、居るのだろう」 だが呼び掛けに応える気配はなく、言葉は静寂に吸い込まれていった。周りの人気のなさが一層空しくさせる。 待っていても埒が明かない。 「…入るぞ」 扉を開ける。鼻を衝く独特のきつい香の薫り。明かりをつけず、仄かに薄暗さを感じさせる室内。 天蓋のついたベッドの上に、うつ伏せになった人影。 「…マリク」 近づいて、少年の名を呼ぶ。抱える枕に埋めていた顔を少しだけ海馬の方に向けたが、表情は窺えない。 チェストの上に煙を燻らせた棒状の香。嗅覚が麻痺していく。 ベッドの縁に腰かける。手を伸ばせば、その銀の髪に届く距離。言葉を待つが、やはり何も返ってこない。 今日何度目かになるか分からない溜め息を吐きそうになって、止めた。 「マリク、その…さっきは、だな…」 意を決して話し始めるが、口篭って言葉が突っかかる。変なプライドは捨てたつもりだった。動悸が邪魔をする。 「わ…悪かった、な」 やっと吐き出したのは、謝罪だった。 得体の知れない何かに大切な者を奪われてしまう不甲斐ない自分への憤りと後悔、そして絶望感。悪夢から目覚めた後の安堵感、湧き上がる不安と恐怖。 依存していたのは、実は自分の方だった。だが認める事が出来ず、受け入れられなかった。 それが苛立ちの正体。 「……っ」 動いた気配がして顔を上げると、マリクが呆気に取られたような表情で海馬を見ていた。 思わず胸が高鳴る。まるで久しく見合わせていなかったかのよう。 「瀬人さんが、謝ってる…」 「なっ、どういう意味だ」 「明日は大雪かも…」 「随分と口達者だな」 低い声音を出すと、海馬は額に青筋を浮かべたようにマリクの頬を抓った。 「痛いよ、も〜」 海馬の手を取り、止めさせる。ヒリヒリと残る熱。零れる笑み。 機嫌を直したようで内心胸を撫で下ろす。 「………っ、」 両手で海馬の手を握り込み、マリクは何か云いたそうに俯いた。上気する頬と濡れた輝きを放つ紫苑の瞳。伝わってくる体温に、海馬の頬にも赤みが増す。 褐色が西日に照らされているのに気づいて、時間の感覚を取り戻した。 「…夕食の後、出掛けるぞ」 マリクは驚いたように顔を上げた。吸い込まれそうな瞳に見つめられる。 「桜が見たいんだろう?」 そう云うなりみるみる表情を明るくしていく。 「うん! ありがとう瀬人さん、大好きっ」 屈託なく笑って抱き着かれた。日向の匂いがした。抱き締め返しそうになって止める。 腹の虫が鳴ってマリクは離れると恥ずかしそうに笑う。頭を撫でた。 靴を引っ掛けて海馬の腕を引く。 「早く行こう?」 「ちゃんと靴を履け」 「はぁい」 マリクはしゃがみ込み、靴紐を解いて結び出した。 海馬は立ち上がる。ふと視線を向けた先には、燃え尽きた香が細い煙を燻らせていた。 三日月が浮かぶ闇夜、疎らな瞬き。陽が暮れて大分経つのだが、気温は暖かく過ごしやすい。 海馬が走らせた車は街中を抜け、郊外へと進んでいた。喧騒や高い建物が遠ざかっていく。 やがて停車した。運転席から降りると、海馬は後部座席のドアを開けて手を差し伸べる。その手を取って、マリクは目を瞑ったまま降りた。 マリクの手を引いて歩いていく。足元を気にして、歩幅を狭めながら。 優しい風が頬を撫でる。何も見えなくても、不安は無かった。 海馬が立ち止まり、手を放す。その場所に着いたのだと確信した。 ゆっくりと目を開けていく。ぼやける視界を数回瞬かせ、眼前に広がる景色に瞳を輝かせた。 三百六十度、桜色に囲まれる。ライトアップされずとも光を放っているかのような圧倒的な艶やかさ。多数の染井吉野に大島桜、八重桜、しだれ桜…。ひらひらと舞い踊り、地面を敷き詰めていく花吹雪。 マリクが振り向くと、海馬は桜に手を伸ばしていた。するりと花びらに避けられる。 もう長い間来る事がなかった私有地。思い出す数年前の記憶。 視線を感じて、其方を見る。それに少し驚いたような顔をしてから、マリクは微笑った。 柔らかい南風。揺れる桜色。舞い上がる花吹雪。 仄かに薫る甘い桜の匂いと――独特の香の匂い。 気がついた時には、抱き寄せていた。強く、きつく、離したくなかった。止められない衝動。 「瀬人さん…?」 耳許で呟く声変わりを終えた声。骨張った筋肉質な体。同性なのだと感じる瞬間。 力を緩めて、唇に顔を近づける。細められる紫苑の双眸。触れる息遣い。 その形を確かめるように啄ばんだ。ふわふわとこそばゆい感触にマリクの肩が揺れる。洩れる小さな笑み。 我に返り、体を放す。目を合わせられずに、視線を下に落とした。 「…すまない」 マリクは俯く海馬の頬に片手を添えた。自然と見つめ合う。 「帰ろう? …寒くなってきたから」 そうして優しく微笑んだ。初夏の木洩れ日のようだった。 めまぐるしく変わる表情。飾らず隠さず真っ直ぐな姿勢。時折覗かせる大人の如く艶。 人々の頭上に輝く、太陽のような少年。 「…そうだな、帰ろう」 思わず口許が綻んだ。 そして太陽は夜も輝く。 |
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