春眠暁を覚えず
『春眠暁を覚えず』とは良く云ったものだが、彼の場合は年中なのだからあまり関係ないようにも思える。 しかし『春』という季節が近づくと人は誰しも眠気に襲われる傾向にある。風向きが南に変わり、空気が暖かになって過ごしやすい気候になる。 否、だが、しかしだ。 『春』は出逢いの季節と云われるが、同時に別れの季節とも呼ばれている。別れにもそれぞれ形があるが、今日は彼の卒業式だ。 彼がこの学園から去る日。だと云うのに。 「せんぱぁい、起きて下さいよ〜…」 やはりこんな日にも慈郎は慈郎のまま。自分より20cm以上も身長差がある後輩の膝の上で、静かに寝息を立てている。 鳳はなかなか起きてくれない元部活の先輩に小さく溜め息を吐いた。本当だったら今頃、式が滞りなく進んでいる体育館の中に居る筈だったのだ。だが慈郎が体育館に来ていないと気づいた時が運の尽き、見つけたのは良いがこうして捕まってしまった。 丁度体育館の裏に居るので、何となく式の状況は判るのだが。 見上げた先にはまだ咲きそうにない桜の蕾。良くイメージでは桜の花びらが舞う中、というのがあるが、実際は卒業式までに桜は咲かず、春休みの最中満開になり、入学式の辺りでは散りかかってしまう。そういうものなのだ。 目に映るのは蒼が綺麗な空のみ。ぼーっと眺めていると、慈郎の温もりもあってこちらまで眠くなってくる。 体育館からピアノの音が聴こえた。卒業証書の授与が終わったのだろう。2月入ってから練習させられた曲。唄わずに済ますのも何だか勿体ない気がして、鳳は掠れた声で唄い出す。 教師への恩だとか学んだ事を忘れるなとか。こんな事よりも、この1年が本当に早かったとしみじみ思う。 まさかこの人を。ましてや同性に惚れるなんて思いもしなかったのだ。2年前の入学式、真新しい制服を着た自分は予想だにしていなかっただろう。 今ではもう、引き返せない所まで来てしまっている。 こんなに好きになるなんて。 膝の上の温もりがもぞもぞと動き出す。慈郎が起きたのだろうか。思わず鳳は口ずさんでいた歌を停めて、顔を覗き込む。 だが寝返りを打っただけで、起きた訳ではなかったようだ。相変わらず気持ち良さそうに眠っている。 そんな慈郎に、鳳は笑みを零した。クリーム色した髪を優しく撫でる。 「…先輩、」 囁きかけるように、小さく。 決して起こす為の声ではなかった。 「先輩、俺…ジロー先輩に逢えて良かった」 春の風が吹き抜ける。静かに言葉を攫っていく。微かに梅の甘い匂いが香った。垣根の葉がざわつく。 ふわふわと旋風に乗って、落ち葉が踊っていた。 「先輩が居たから、ここまで頑張れたんです」 貴方が居たから。努力する意味を知った。強さの本当の意味を知った。 貴方の笑顔が教えてくれた。仲間と歓び合う喜び。 貴方が居たから。今の俺が在るんだ。 だけど。今日貴方はこの学園から去ってしまう。俺という存在を支えていたモノが居なくなってしまう。 「先輩…、」 息を詰まらせる程、込み上げてくる様々な想い。云いたい事が山ほどあるのに、あり過ぎて1つに纏まらず、零れ出てくるのは頬を濡らす涙だけ。 手で目を擦ってみるも、止まる気配はない。 「先輩、…先輩」 呼ぶ度に伝っていく。言葉が出なくなっていく。 溢れて。 「離れたくないです…っ」 零れ落ちた想いは寂しさ。 彼に考慮なんてしない、自分のエゴに満ちた一言。結局最後まで気の利いた強がりさえ云えない自分に鳳は嫌気が差した。強く瞼を閉ざす。 不意に、何かが頬に触れる。驚いて鳳が目を開けると、眠っているとばかり思っていた慈郎が涙を掬うように頬を撫でていた。 「泣かないで」 真っ直ぐ鳳を見つめて慈郎は云った。 「おおとり、泣かないで」 起き上がり、鳳の足を跨いで向き合うと慈郎は両手でその顔を包み込んだ。 そして、ふわりと微笑を浮かべた。 「っ先輩…」 「離れないよ、おおとり」 柔らかな口調の中に微か強い意志が篭もる。 それを聞いた鳳はまた涙した。 「離れたりしないよ」 泣きじゃくる後輩の頭を胸に抱き、翳りが灯る瞳を伏せた。 気休めなんかじゃない。優しい嘘なんかじゃない。そう自分に云い聞かせる。 一房の桜が見守るように風に揺れた。 |
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