衝動


 突然、頭が揺れる。左頬に衝撃。勢いよく後ろに倒れ込む。バサバサと書類が落ちた。机に背中を、床に尻を打つ。辛うじて片腕だけが机にしがみついていた。
 ジンジンと熱を持つ頬。鉄の味が広がる。口の中を切ったようだ。頭がクラクラする。

「て、め…っ!」

 謂われのない暴力に、憤りで体が発火してしまいそうだ。
 ぼやけた視界で目の前を睨みつける。眼鏡は弾みで飛ばされて何処かへと行ってしまった。少なくとも見える所にはないようだ。

「…済みません」

 酷く平坦な声音。表情は分からない。分かっていたら、とっくにやり返している。少し近視が不便に感じた。

「ごめん、で済むなら、警察は要らねぇんだよ…、なぁ?小松原くん」
「…はい」

 乱れそうになる呼吸を整えながら、気持ちも落ち着けようとゆっくりと息を吸う。
 今すぐこの後輩をぶっ飛ばしたい衝動と裏腹に冷静な自分が居て、下手に動かない方が得策だ、相手を刺激しないようにしろ、などと囁いてくる。
 一先ず体を立たせようと脚に力を入れた。よろめきながらも何とか立ち上がる。打った所がヒリヒリと痛む。また何枚か書類が落ちた。
 自分と後輩以外誰も居ないオフィス。一つしか点いていない蛍光灯。生温い空気。

「ほんと、済みません。…痛い、ですよね」
「当たり前だろ」

 苛つく。腹腸が煮えくり返りそうになる。ぐっと抑えて我慢した。今はまだ不利だ。
 近づいてくる気配に身構える。思わず片手を机についてしまった。
 徐々にはっきりとしてくる輪郭。現れたのは自分より少し背の低く、くたびれたスーツを着た後輩だ。伏し目がちにしていて、その表情は未だ分からないままだった。

「済みません」

 ビクッと体が撥ねた。背筋にゾクゾクッとした物が走る。左頬に生温い感覚。
 触れられた。包み込むように。傷を労るように。
 唇の端をその指が撫でる。気持ちが悪かった。払い除けたかった。しかし腕が動かない。
 震え出した体を抑えたくて、戸惑いや驚きを悟られたくなくて、視線を外すと目を閉じた。食い縛りすぎた奥歯が痛い。
 沸き上がるのは先程の怒りではなく、――恐怖と焦り。
 何故恐れなければならないのだ、こんな相手に。いつもはイジられキャラのくせに。シゲさんに無茶ぶりされてるくせに。こいつの思惑が読めない。
 早く、離れなければ。
 どくどくと心臓が速まっていく。傷が脈に共鳴して痛んだ。汗が流れていくのに寒い。血を飲む度に吐気がした。
 ふと、指が離れる。安堵にゆっくり息を吐く。体の緊張を少し緩ませて、薄目を開いた。
 それも束の間。
 今度は強く抱きつかれる。まるで幼い子どものように。きつくきつく。シャツを掴む手が震える程に。
 訳が分からなかった。一体、こいつは何がしたいのかも。自分をどうしたいのかも。そして、そんな後輩の背をあやすように叩いている自分も。
 混乱しているのだろうか。少なくとも自分はそうだが。
 体中を駆け巡っていた憤りも恐れも焦燥も不快感も、何故か綺麗に吹っ飛んでしまっていた。だからと云って、こいつのやった事は許せないのだが。今も肋骨を締め付けられて痛い。
 もう、好きにすればいい。
 …ただし後で殴らせろ。
 溜め息を吐くと、不明瞭な視界でぼんやりと暗闇を見つめた。








 悟られないようにほくそ笑む。
(…良かった。そういう顔も出来るんじゃないですか)




(――怯える先輩も、素敵ですよ)






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