良心の囁き


 暖房の効き過ぎた空気と窓からの冷気が混ざり合う。エアコンの風に晒され続けていた肌と唇が乾燥していた。
 付けてあるだけで誰も観ていないテレビからは、時々聞き憶えのある曲が流れてくる。

「一志、そんな所にいると風邪引くわよ」
「平気だから、放っておいて」

 窓ガラスに映り込んだ、忙しそうにしている母と憂鬱そうな自分。少し訝しんだようだが、そのままキッチンに姿を消す。室内にケーキのスポンジを焼く甘い匂いが漂ってきた。
 大して面白くもない外を眺める。空は分厚い雲で覆われていた。テレビが短い天気予報を伝えている。
 ――自分は一体何をしているんだろう。
 あの男の不思議なまで自信に満ちた笑顔がいつまでも記憶に食い込んで、忘れさせてはくれない。思い出したくもないのに、ふと浮かんでは気分を害していく。全く、不愉快だ。
 何故自分がこんな思いをしなければならない。
 一体何に期待しているんだ。自分の元へ帰ってくるという保証など、何処にもないのに。
 もしかしたら、もう二度と会わないのではないだろうか。何の便りも寄越さないのは、霧のように消えてしまったからではないか。
 変な結論に至ろうとして、鼻で笑った。馬鹿馬鹿しいと嘲り、光が射さない曇天を見つめる。
 ――全て、幻だったなら、どんなに気楽だろう。
 一瞬でも考えた自分に嫌気が差す。執着なんかしていない、そんな筈はない。
 喉が渇いて立ち上がる。少し動いて気を紛らわせた方が良い。
 何気なく顔を上げた。――幻影を見た。
 息を呑む。だが自分の頭を疑う。何故そんなモノを見せる。考えるより体が速く動き出していた。
 その髪が。目が。鼻が。口が。耳が。肌が。手が。腕が。脚が。
 見間違うなんてあり得なかった。思わず駆け出す。玄関のチャイムが鳴った。
 母がキッチンから出てくるのを手で制止する。念のためインターホンの画面を確認した。
 靴を引っ掛けて扉を開ける。鍵がかかっていた。外している時間すらも、もどかしく感じた。今度こそ扉を開ける。

「おわッ! お、久し…ブホッ」

 頬を殴った。
 変わっていない。何一つ変わっていない。この態度、笑顔、声。腹が立つ程あの時のままだった。

「なんなんだよ、お前! なんで、いきなり帰って来るんだよ!
 長い間何の連絡も無しで! どういうつもりなんだよ!」
「え、ちょ、どッうしたんだ?」

 両手の拳で胸板を何度も強く叩き続けた。堰を切ったように言葉を浴びせる。全然効いていないと分かっていても、止められなかった。
 周りが見えにくくなる。

「文のバカ!ろくでなし! お前なんかなぁ…!」

 段々手に力が入らなくなり、いつの間にかしがみ付いていた。
 顔を上げる事が出来ない。幾度となく繰り返してきた全ての“何故”が、簡単に解けてしまうのが悔しくて堪らなかった。
 本当は、何もかも知っていたんだ。だがそれを素直に伝えられる程自分は単純ではないし、何より認めたくなかった。

「…ゴメンな、一志」

 頭を片腕に抱かれ、胸に押し付けられた。日向の埃っぽい匂いがした。
 嗚呼、紛れもなくこの人だ。そう思ったら、耐えきれず涙が溢れた。

 寂しかった。ずっとずっと、寂しかった。
 何の便りもないのが憶測に拍車を掛けて、不安で仕方なかった。
 このまま帰って来ずにどうでもよくなって忘れてしまうのが、凄く怖かった。
 本当は大好きで愛しくて、恋しかったよ。

 泣き止むまで、何も云わず抱き締めてくれていた。それだけで落ち着けた。
 少し離れると腕が緩められる。髪を撫でられて、その手で頬を拭われた。涙が溜まった眼鏡を外される。また視界が不明瞭になった。
 顎を掴まれ、顔を上に向かされる。口吻けされる――前に、人の気配を感じて体を突き飛ばした。

「うお、なんッだよ!」
「獅子川、場所を弁えろ」

 突然苗字で呼ばれた所為か、一瞬呆けていた。
 後ろから声がかかる。

「一志、玄関開けっぱなしにしないで。寒いでしょ。
 …あら、獅子川くんじゃない! 久しぶりねぇ!」
「お、お久ッしぶりですオバさん!」
「立ち話もアレだから、入って入って!」

 もう少しでケーキが出来るのよ。良かったら食べていって、と有無を云わさない勢いで母は話す。
 今食べさせたら駄目だろう、と思ったが口には出さないでおいた。何か云われると面倒だから、目元を袖で拭う。
 その後、鍋に火をかけっぱなしだったわ、と慌しく奥に引っ込んだ。騒がしい人だ。
 静かになって、急に二人でいる事が恥ずかしく思えてきた。何だか気まずい。

「…まぁ、上がれば?」
「…ハハ、そッうだな」

 平静を装って声を出してみた。どうやら上手くいったようだ。
 照れたように笑いながら答える男を家に招き入れる。

「おい、眼鏡返せ」
「…あァ、すまねェな」

 扉を閉めて靴を脱ぐ。眼鏡を服の裾で拭いてから掛け直した。
 男は座ってブーツの紐を緩めている。

「そッういえば、やけに街が浮かッれてるんだが、何かあんのかァ?」
「…カレンダー見ろよ」

 どんな秘境に行っていたんだ、この男は。






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