I talk to the rain


 初夏の空は晴れる事が少なく、雨雲に覆われてその蒼は見えない。静かに降り頻る水の粒が紫陽花の葉を揺らす。
 青春学園テニス部部室では、各々着替える部員たちの談笑が雰囲気を明るくした。湿気を含んで重くなった制服を着込んでいく。

「お疲れー」
「おー、また明日な」

 髪を拭くためにヘアバンドを外して、荒井はチームメイトを見送った。濡れたタオルやジャージを適当にスポーツバッグの中へ入れる。
 その間にも次々と人口密度が低くなっていく。着替え終えてバッグのファスナーを閉じた。

「ったく、天気予報ハズれやがって。部活中止かよ」
「晴れるって言ってたのにな。俺、傘持ってねーわ」
「俺は折りたたみ有るから、いいけどなー」

 聞こえてきた会話に、荒井は小さく溜め息を吐いた。かくいう荒井も傘を忘れたクチだからだ。
 暫らく様子を見るか、それとも諦めてこのまま帰るか。
 少し悩んだが、前者を選ぶ事にした。陽が沈むまでに止まなかったら、諦めようと考えた。
 周りを見渡してみても、親しい友人は皆帰っていた。ベンチに座り、ケータイを無意味に弄りながら暇を持て余す。

「じゃあな、手塚」
「…ああ」

 バタンッ、と扉が閉まると、急に辺りが静まり返った。椅子を引く音がして顔を上げる。
 見渡せずとも、そこにはテニス部の部長が座っていた。まるで暑さを感じていないような涼しげな表情で、机上の日誌にシャーペンを走らせる。
 荒井は緊張した。と、同時に後悔と嬉しさが入り混じった奇妙な気持ちに、胸が高鳴る。

「…どうした、荒井。帰らないのか?」

 手塚と目が合って発火したように顔が熱くなった。慌ててケータイを閉じる。カチッ、と部室に響いた。

「あの、その…傘、忘れ…たんで、えぇと、雨宿り…です」
「………。そうか」

 澄みきった焦げ茶の瞳に捉えられて、息苦しい程鼓動が速まる。目線が合わせられずに泳ぐ。言葉が上手く出てこない。
 手塚の視線が日誌に戻っても、荒井の心臓は高鳴り続ける。
 ケータイを握り締めて立ち上がる。荒井は向かいの窓側にあるベンチに片膝をついて、窓のサッシに両肘をかけた。腕を組んだ形の上に顎を乗せる。
 クールダウンも兼ねて雨を見つめる。水溜りに絶え間なく波紋を作っていく。
 憧れの人――密かに想っている人と二人きりという状況で、冷静でいられなかった。未だに顔が火照る。
 時々横目に見る。まだ乾ききっていない色素の薄い髪と精悍な顔立ち、眼鏡の奥にある切れ長の目。テニスの実力もあって統率力もあり、尚且つ生徒会長を務め全国模試は常に上位十位以内。非の打ち所のない完璧な人間。
 結ばれたいとは決して思わない。――思ってはいけない。
 同性だという事を差し置いても、才色兼備な手塚にガサツな自分は釣り合わない。
 今は近づけこそ出来ないが、部活の後輩として接してくれる。それだけでどんなに幸せだろう。だが引退されたら、卒業されたら、接点はなくなる。もしかしたら一生会えないかもしれない。
 しかし告げて嫌われるより、最後まで良い後輩でありたかった。想いは押し殺さんばかりに、墓まで持っていく決意で。
 雨は優しく天から降り注ぐ。湿気に閉ざされた空間。肌寒ささえ感じる。四角い光が地面に差し込み、寂しげな影を一つ落とす。
 荒井はケータイのサブウィンドウを光らせた。まだ五分も経っていない。
 ペンを仕舞う音。日誌を閉じる音。椅子から立ち上がる音。すべて手塚の方から聞こえた。
 背後に人が通る気配。電気が消えた。先程とは逆転した光の差し込み。薄暗い室内に淡い太陽光。無彩色に沈む。
 聞こえてくる筈の音が聞こえず、また人の気配が通って視界に見切れる。ベンチが僅かに軋んだ。
 視線を滑らせると、ベンチに座る手塚が目に入った。身を捩り、サッシに片肘をついて外を見つめる。落ち着きかけた脈拍がまた忙しなく動き出す。

「か、帰らないんスか?」
「…俺も、傘を持っていなくてな」

 荒井は驚いて咄嗟に問う。てっきり、もう帰ってしまうと思っていた。
 ふっと手塚の口許が微かに綻んだ。いつもは仏頂面で、寧ろ険しい表情を浮かべている事の方が多い手塚が、だ。
 自分に向けて、微笑んでくれた。

「…そう、スか」
「ああ」

 思わず素っ気ない言葉を発して顔を腕に埋めた。耳まで紅くなっているであろう自分が恥ずかしかった。
 心臓が口から出てくるのでないかと思う程の高鳴り。

「…止まないな」
「…そうッスね」

 こうやって手塚と言葉を交わしてる事が、荒井は不思議でならなかった。
 同じ空間に居るだけで良かったのに。その先を求めてはいけないのに。
 もう少しだけ、まだ降り止まないでほしい。

「…綺麗だ」

 それは雨に語りかけるように。
 こっそりと見遣る。手塚の視線の先には、咲き始めたばかりの紫陽花。赤や青に近い紫の小さな花々が円を成し、咲き乱れていこうとしている。大きな葉に目一杯天の恵みを受けて、雫が滴る姿は活き活きとしていた。
 その中に一房の白い紫陽花。凛として、孤高。穢れのない真っ白な花。
 まるで――。
 そこまで考えて、荒井は目を伏せた。花に喩えるなど馬鹿げている。相槌が打てずに押し黙った。
 しとしとと雨は降り続ける。水音が沈黙を掻き消していく。
 突然、軽快な効果音が鳴り響いた。発信源は荒井の手元にあったケータイからだった。慌てて背筋を伸ばし、ケータイを開いてクリアボタンを押す。効果音は途切れて、また雨音が包む。
 クラスメイトからのメールだった。開かずとも大した用事ではないと見当がついて、荒井は差出人とマナーモードにしていなかった自分を恨んだ。
 小さく溜め息を吐いて顔を上げると、手塚と目が合う。その気まずさに荒井は言葉が出なかった。
 手塚が目を逸らし、再び窓の外を見つめる。荒井もそれに倣った。

「あ、」
「弱まってきたな」

 ぽつぽつと小雨になっていた。陽が翳り、暗闇が迫り来る。

「オレ、もう…帰ります」
「…そうか」

 荒井はベンチから離れ、バッグを肩にかけた。ズボンのポケットにケータイを仕舞う。手塚の方は一度も見なかった。
 逃げるように扉に向かう。

「気をつけて、な」

 ドアノブに触れかけて、荒井は立ち止まった。その言葉が自分に向けられていると理解するのに、数秒を要した。
 振り返ると、荒井が見た事がない柔らかな表情の手塚が立っている。

「は…はい」

 今にも泣き出しそうな笑顔を作った。上手く出来たのかは、荒井自身も分からなかった。
 悟られないように足早に部室を出る。扉を閉めると、一目散に駆け出した。
 頬が緩む。鼓動が治まらない。全身が熱い。水溜りに入って水飛沫が跳ねる。スニーカーに滲みた。
 校門まで来て、歩調を狭める。霧のような雨が髪を、シャツを、濡らしていく。乱れた呼吸を整えながら歩いた。目許を拭う。
 なんて幸福な一時。思い出して、また涙が出そうになった。悪い事が起きる前兆ではないかと疑ってしまう。
 はぁ、と吐き出された熱い息。振り払うように駅まで駆ける。




 荒井を見送って、手塚も帰り支度をする。スポーツバッグを持って部室を見渡し、戸締りの確認をした。外に出て扉に鍵をかける。
 鍵を仕舞い、空を見つめた。雨の中へ手を翳す。掌に触れる優しい細やかな水の粒。
 手を引いて、バッグを開ける。中から折りたたみ式の黒い傘を取り出した。カバーを外し、バッグを閉じる。
 手塚は傘をじっと見た。本当ならば、もっと早く帰路に着いていた。日誌を書き終わった後、荒井に戸締りを頼めば済んだ筈だ。

「…何故だろうな」

 それは雨に語りかけるように。






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